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1960s

[社会情勢・時代背景] 

価値観が激変した反抗の60年代。ベトナム戦争、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺事件、アメリカとロシアの冷戦構造は宇宙にもちこまれ、61年にソ連が初めて友人宇宙飛行を成功させると69年にはアメリカが月面着陸を成功。ドイツでは61年に「ベルリンの壁」が設置され分断。アメリカでは人種差別やマイノリティや女性、ゲイの権利運動(公民権運動)や、ベトナム反戦ムードが徐々に高まっていきました。若者のあいだでカウンターカルチャーやヒッピーカルチャーが存在感を高めていきました。社会の既成的な価値観を破ろうとする新しい若者文化の爆発で、若者による社会改革でした。イギリスでは66年頃からスウィンギング ・ロンドンと呼ばれた音楽やファッション、アート、映画やスポーツでロンドン文化が光り輝き世界中に影響をもたらし始めました。


[ファッション]

 1960年代になると、既製服業界の成長とともにオートクチュールは衰退の一途をたどっていきます。さらに戦後生まれのベビーブーム世代で成人し、人口比率も戦前の2倍程度まで増え、若いエネルギーの勢力が増し、エレガンスよりも自身の価値を求めたストリートの勢いが強まってきました。 ユースカルチャーからモッズ、ミニスカート、ジーンズ、ヒッピーなど、オートクチュールから降りてくるファッションではなく若者が自身でファッションを選び、ファッションによりアイデンティティを示しはじめました。ミニスカートはストリートでの人気からハイエンドにも波及。ユースカルチャーからファッションそして新しいスタイルが登場し、大きな転換期を迎えます。


60年代前半 『ジャッキー・スタイル』

 この頃ファッションリーダーとなったのが、ジャッキーの愛称で親しまれた米国のファースト・レディのジャクリーン・ケネディ。 それまでのファーストレディーのイメージを打ち破り、若々しく上品で 新鮮なファッションセンスをアメリカ国民に印象付け、大統領のイメージアップに貢献しました。 彼女のトレードマークのピル・ボックス・ハットが爆発的に流行し、パールのネックレス、シフトドレス、リトルスーツ、リボンやロンググローブ、オーバーサイズのサングラスなどが『ジャッキー・スタイル』の象徴とされ当時のアメリカ国民の憧れとなりました。 ジャクリーンのワードローブを手がけたデザイナーはオレッグ・カッシーニやシャネルやジバンシー。大統領暗殺時に着用していたピンクのスーツもシャネルでした。 彼女のファッションセンスはファーストレディーでなくなってからも注目され70年代もファッションアイコンとして世界中の女性達に影響を与えました。



『モッズ』

「モッズ(MODS)」とは、ロンドンのカーナビーストリートを中心に発信された、モダーンズ(MODERNS)の略称。ロンドンの低所得層者から生まれたサブカルチャー。高所得層への反抗からくる自己表現として生まれました。最初は細身のテーラースーツから始まりますが、徐々にカラフルなデザインへと変化していきます。 ファッションの特徴は、細身の三つボタンスーツ、ボタンダウンシャツにナローネクタイを身に着け、ミリタリーパーカー(M-51)を羽織るのがモッズファッションの基本。また、長髪、花柄や水玉など派手な色彩、股上の浅いスリムパンツ、ブーツなどが反体制的なシンボルとして生まれた自己表現がそのようなファッションを生み出したのだ。 モッズスタイルはビートルズ、ローリングストーンズが身に着け、さらに世界的な注目が集まりました。 また、同時期により反抗的なグループのロッカーズはモッズ以上に「高所得層への反抗」と位置付けられていました。




60年代中期『ミニスカート・ブーム

 1960年代のロンドンで若者文化の集まる場所、ストリートファッションの発祥の地はキングスロードのチェルシー地区、このチェルシー地区のファッションを着こなす女性のことをチェルシーガールと呼んだ。 デザイナーのマリークワントはロンドンのトレンドセッターでありチェルシー地区のファッションそのものでした。彼女のスタイルはミニスカートにヴィダルサスーンのカットしたショートボブの髪型でした。マリークワントは等身大の若者の世代に自身を置いていたのでアイテムも多くの人々が購入出来るような展開をしていきます。そこから徐々に普及し、64年にはオートクチュールでクレージュが発表し、世界的に普及が加速しました。このミニスカートブームの火付け役となったのがツィギーである。ユニセックスな魅力と元気さ、肌を露出しても爽やかな彼女のスタイルが一世を風靡し、日本でも1967年のツィギーの来日とともにミニスカートが爆発的に流行しました。


小話

1960年代以前の理想の女性像は、マリリン・モンローのような豊満でセクシーな女性やグレイスケリーのようなエレガントな女性。

しかし60年代になると、ロンドンのイメージを表現した女性は全くの逆で、小柄で胸は小さく、痩せているごく身近にいそうな活動的な女性像が理想となった。


60年代後半ヒッピー・スタイル

ヒッピーとは、”ラブ&ピース”を合言葉に音楽、ファッション、ドラッグが融合して生まれた文化であり、既成の社会や価値観に縛られず、”愛・平和・自然”を愛する自由な生き方を求めた人々、または文化を指します。ヒッピーの内面に宿る自由な思想の現れとともに彼らはそれに世の中の性的差別・人権差別に対する反抗的な意思やその人のありのままを受け入れることの重要性を世界に発信した。ヒッピーの中で、ファッションは自らのイデオロギー(社会思想、政治思想)を表現するものとして定着。ヒッピーファッションの特徴としては長髪、髭、Tシャツ、ジーンズ、ネックレス。また派手な色柄のロングベスト(ヒッピーベスト)やフォークロア調の服、刺繍入りのカフタン(トルコの民族衣装)など。 さらには男女を問わず意図的に「服を着ない」というスタイルもありました。

-日本-

 1964年に東京オリンピックが開催され、第一次高度経済成長と相まって、日本は国民を上げて社会が盛り上がっていました。テレビ、週刊誌、雑誌等のマスメディアの影響が強くなり流行が生まれ、浸透していきました。国民の生活水準が上がったことで若者達はファッションにお金をかけるようになり、VANが提案するプレッピーをベースとしたアイビールックに身を包み、銀座のみゆき通りを闊歩するみゆき族や原宿族、六本木族等があらわれ繁華街とファッションが結びつくようになりました。音楽からの影響も強く1966年にビートルズが来日が更に拍車をかけ「モッズ」やGS(グループサウンズ)ルックが広がっていきます。また、カルチャーの交流の場として、丸山明宏(美輪明宏)寺山修司横尾忠則らが集まった銀巴里やゴーゴー喫茶等、喫茶店文化を盛り上げ、芸術活動も盛んになりジャパニーズアンダーグラウンドの礎を築きます。1967年は、ツイッギーが来日。日本の若い女性にとっても憧れの的となり、日本でもミニスカート施風が巻きおこりました。


・グループ・サウンズ

タイガース、スパイダーズなどのメンバーは奇抜なファッションで大衆を魅了、アメリカが経由のためミリタリーやウエスタン調のテイストが入っている。

・フーテン族

東京新宿東口駅前広場あたりにたむろしていたヒッピー的なスタイルに身を包んだ若者をさす。定まった住所や仕事をもたず、学生運動もしない若者たちは長髪で小汚い格好だったが、ティアドロップのサングラスやピッタリしたベスト等で次第に洗練されていきました。

また、ジェンダーレスが公にうたいはじめた時代、ピーターや丸山明宏(美輪明宏)等が現れ、まだ世間の風当たりが強かったが、自らの自由な精神性を芸術を表現しました。

※ヘアーメイクの詳細、豊富な画像はメンバーページでご覧いただけます!


[映画]

吸血鬼        https://youtu.be/Wz7rxsGB8T0

クレオパトラ     https://youtu.be/vB5Wv8IHVf0

・去年マリエンバードで https://youtu.be/AnLIVGI15PI




60s舞台の現代映画



[音楽]

 1960年代は、社会、ファッション、特に音楽の激動の時代だった。1963年まで、60年代の音楽は過去10年間のサウンド、スタイル、信念を反映しており、ヒットしたレコードの多くは、エルビスプレスリー、レイチャールズ、ディオン、ザエバーリーなど、1950年代に主流の成功を収めたアーティストによるものだった。1963年とその後の数年間、多くの社会的影響がポピュラー音楽のあり方を変え、多様性を生み出した。ケネディ大統領の暗殺、ベトナム戦争の拡大、公民権運動の進展は、すべてアメリカ文化の雰囲気に大きな影響を与え、音楽はその変化を反映し始めた。「ブリティッシュインベイジョン(1960年代半ばにイギリスのロックやポップ・ミュージックをはじめとする英国文化)」も1963年頃に始まり、ビートルズが音楽シーンに登場、その後の狂ったタイプのファンダムによって、人々が音楽やミュージシャンと向き合う方法が変わった。


The 60s Top 100 (17min)



The 60s surf rock



Dancing music


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